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丹中山周辺の龍馬の仲間たち


2010年12月19日(日)
「ああっ、龍馬よ」に掲載されている丹中山周辺の墓所を、作者の前田秀徳氏に案内していただきました。

濱田束稲


濱田束稲(天保6年〜明治42年(1855〜1909))の墓です。「無味庵夏一墓」「通稱濱田束稲」と彫られています。
祖父が上士との争いで殺害されたので、父は母の実家に引き取られ藤田姓を名のっていたので栄馬も藤田姓でした。
龍馬が脱藩した翌年、文久3年栄馬は元の濱田に改姓しました。


龍馬と栄馬は父同士が友人でしたので家族ぐるみのつきあい
で、共に日根野道場に通っていました。
兄弟は長男栄馬、長女琴、次女好、次男陸五郎。
また、栄馬の子は長女楠猪、長男楠馬、次男稲吉。
楠猪は自由民権家の横山黄木に一目惚れされ嫁いでいます。
この時黄木は栄馬に対し「嫁にくれなければ家に火をつける」と脅したと伝えられています。(飛騰No58)


明治になって濱田束稲と名乗り不白流の茶人として有名になりました。
球形の墓石はこの人の人格の丸さを表現しているようですね。
台座は遺言により茶をひく臼を逆さに使っています。
また、子供の時に遊んで通った道の側に墓を作ることも遺言していたのでここにあると聞きました。


石山孫六


石山家の墓所が見えます。


土佐藩剣道範士の称号を持つ剣豪、石山孫六です。
土佐藩江戸藩邸で指導していました。
坂本龍馬との試合の逸話もあります。



道は尾根に出て東に向かいます。途中、シイの大古木に出会います。


小畑孫三郎

シイの木から左手下の斜面にあります。


土佐勤王党加入、弘瀬健太らと三条実美に
接触、土佐藩の京都警護職を得る。
容堂の土佐勤王党弾圧により捕らえられ
酷い拷問を受けたが僅かな呻き声を出した
のみで、一言も漏らさなかったという。
永牢処分となり、病気にかかり、仮出所
するも3日後に死亡。


弘瀬健太


道は少し進んで右手に下ります。平和町の県営住宅が見えます。
土佐勤王党の幹部の一人。招魂墓です。
平井収二郎、間崎哲馬とともに令旨事件に絡み切腹させられました。


廣井盤之助


坂本龍馬が廣井盤之助の仇討ちに協力したと
いいます。
墓石の裏面にはぎっしりと文章が刻まれて
おり、坂本龍馬の文字も見えます。


徳弘董齊


井口山に徳弘家墓所があります。


龍馬の砲術の先生であり、半平太の絵の先生でもあります。
彫りの深い力強い素晴らしい文字です。

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