おんちゃんのカメラ歴


 
<リコーフレックス>
 戦後間ものう工業高校の教諭となった父が、薄給で6人家族を
養いながら5球スーパーラジオの組み立てなどの内職をして蓄え
た金でカメラを買うたがにかあらん。
 戦争で失うたもんが多かったことやら、曾祖父が明治初年に店
で写してもろうた写真も残っちゅうことらあから、記録の大事さを
感じたがやろうねえ。
 わしが小学6年になったとき、このカメラを初めてつつかしても
ろうた。2眼レフじゃきに上から覗くがじゃけんど、そのガラス面
に写った画像どおりに写真が出来上がるがが、しょう不思議じゃ
ったぞね。
右の写真はおんちゃんの若い頃の後ろ姿じゃ。(1961日章飛行場)


<オリンパスペンS,D>
 中学生になり、親戚の手伝いとかいろいろして貯めたお金で買
うた、初めてのカメラ、ペンS。今はもうない。とゆうのも、2年ぐらい
は大事に使いよったがやけんど、そのうち物足りんなってレンズの
ヘリコイドのストッパーを外してマクロに仕立てたりして壊したきに、
今はもう廃棄してしもうたがよ。ハーフ版といい、写真1枚分のフィル
ムの面積が半分じゃきに、同じフィルムで倍の枚数撮れる。スナッ
プ写真にはフィルム代が安くついてよかった。
 そのうち父は露出計のついた高級機ペンDを購入。いつしかわしも
それを横取りして使うことになった。

1962年PEN−Sで
    中学1年のとき、卒業した小学校の運動会に行って恩師に出会いました。

1963年PEN−Sで 
    高校1年のとき、鏡村川口でキャンプをしました。今は亡きクラス担任の先生も一緒でした。

1964年PEN−Dで 
    高校2年の修学旅行は九州へ。ちょうど別府阿蘇道路が開通しました。また、文化祭、運動会とカメラは活躍しました。

1965年PEN−Dで 
    高校3年の運動会のダンスは家族が撮りました。 お城祭りでは高校のブラスバンド部が協力しました。

 高校3年ともなると同級生に1眼レフを使う奴が出てきたがやき。
ファインダーを覗かせてもろうたら、あの2眼レフで覗きよった世界
が小さなカメラの中にあると思うたぞね。これもなんでレンズが一つ
やのにフィルムへの光とファインダーへの光が別々にできるんやろ
と不思議じゃったねえ。それにシャッターを切るときのミラーの音が
なんともいえん、えい音じゃった。


<オリンパスペンF,FV>
やがて自動的に高校は卒業し、けんど希望の大学には入れず
浪人暮らしが始まった。 毎日受験勉強ばかりもしておれず、
アルバイトもし、少しお金が貯まったら当時発売されたペンFが
眼に止まり、欲しゅうてたまらんなった。
これはペンSと同じハーフ版であり、フィルム代がお安くあが
ることもあるけんど、とにかく1眼レフそのものじゃきに。
とゆうことで、バイト代をつぎ込んで灰色の受験時代はひととき
バラ色になったがよ。
やがて大学に入り、またまたバイト代をつぎ込み、FVにグレード
アップしたぞね。


<オリンパスOM−1,10,20>
故郷に戻り給料をもらい始め、フィルム代も安うなり、植物写真
などを撮るようになって、解像度がハーフ版では事足りんなった
し、マクロや顕微鏡などいろんなことを始めると露出もTTLが必
要になったがよね。ハーフ版からフルサイズになり活用しよった
けんど、1台目は肩から滑り落ちてメーターが壊れた。2台目は
シャッタースイッチが接点不良になりいずれも修理に出すがどう
にもならず。この間にOM−1から廉価版のOM−10、20と機
種を変え、露出計のメーター針は発光ダイオード表示に変わっ
たぞね。

 オリンパスはこの後、廉価版のシリーズが途切れてしもうた。しばらくこのままの状態で使い続けてきたけんど、女性向きと言われよったCanonのEOS Kissを持ってみたらその軽いこと。OM−20は長男に譲ってわしはCanonに走ってしもうたがやき。
 この後、デジカメ時代に突入。ホームページ作りも始めたき、富士フイルムの130万画素がぼっちりよかった。そして、表のページにつながっていくがです。

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