戦争遺跡(南国市、吉川村、夜須町、土佐山田町)

今日までに訪問した近年の戦争遺跡をまとめました。しばらくは平和について考えましょう。
NHKの「戦争証言アーカイブス」では次第に少なくなる戦争体験者の証言をインタビューにより集めています。


「高知・20世紀の戦争と平和」という本が「草の家」から発刊されています(1.300円)。
私たちに以下の遺跡について教えていただいた先生の記事や小学校での平和教育実践についても掲載されています。
「草の家」ホームページ

 南国市の「高知龍馬空港」南西方には緑の田畑の中にぽつりぽつりとこのようなコンクリートのかたまりがあります。
 昭和18年、高知海軍航空隊が、旧三島村の大部分を飛行場にしました。ここは予科練卒業者のうち、偵察搭乗員の実技教育をする練習航空隊でした。
 その練習機を敵の空襲から守るための防空壕のような格納庫がこの掩体壕です。練習機は「白菊」といい、後に「神風特攻隊」として沖縄に悲劇の出撃をしたのでした。
 終戦までに造られた掩体壕は鉄筋コンクリート9基、その他に木や竹、土のものもあったようです。現在残っているのは鉄筋コンクリート7基で、大きいものは高さ10m、幅45m、奥行き22m、厚さ50cmだそうです。
 農業地帯であったこのあたりに飛行場を造り、その上このような掩体壕を32も造ったことにより、農民にはずいぶん犠牲を強いていました。
 ここではもともとあった道路と用水が掩体のために途切れていました。(現在は復旧しています)
 物資のない終戦間近に作られたということで、その工法は盛り土をした上に紙やゴザを貼り、その上に細い鉄筋を組みコンクリートを流したといいます。固まってから盛り土を抜いて飛行機が入れるようにしたのですね。紙やゴザの跡がはっきり見えます。
 左のような被弾の痕跡が今でもはっきり見えます。
 2006年2月、7基のコンクリート掩体壕すべてを南国市が史跡指定し保存、整備していくことになりました。
 全国には48基あるそうですが、複数まとめて史跡指定するのは南国市が初めて。


 現在の飛行場の南側のフェンス際をたどっていると東端に近いところにこのような石碑があります。
 旧三島村農民が長年汗を流して耕作していた土地を、戦争のための飛行場として接収され追い出されたこと。
 戦争が終わってやっと土地を戻してもらえると喜んだのもつかの間、国や県は高知大学農学部や高知空港用地と決めてしまいました。続いての高知工専や空港拡張で故郷再興の望みはなくなってがっかりしたことなどが記述されています。
 飛行場北西側の場外有料駐車場近くに立つ三島村尋常高等小学校跡の碑です。卒業生が建てたのでしょうね。


 空港の東南端にはこんな石碑が立っています。
「鎮魂」高知海軍航空隊の碑と書かれています。
 一機一艦体当たりと言われた特攻隊として、永遠の旅立ちを余儀なくされた若い人たちの魂を鎮めるための鎮魂碑です。
 高知工専運動場の南側に人間一人がやっと入れるぐらいの、古いコンクリートの建造物があります。この中から機関銃を突き出して飛行場に襲来する敵機を撃っていたと思われます。トーチカと呼ばれます。
 前浜の海岸に出ると戦後造られた堤防が東西に延びていますが、そのすぐ内側に戦争中に造られたこの黒いコンクリートの固まりが座っています。
 これもトーチカです。
 上下二段に見えますが、上半分(厚さ約2m)は天井で、飛行機からの爆撃にも耐えます。下の細長い穴は銃や砲を撃つためのいわゆる銃眼部分らしいです。これで砂浜から上陸してくる敵を倒すつもりだったようです。今では農家の納屋になっています。



 終戦直前に物部川河口から200mほどの沖にアメリカ軍の飛行機が墜落しました。
 昭和56年12月に網にかかり引き揚げられたのはグラマンのエンジンとプロペラでした。


 これを操縦していたアメリカ軍のパイロットはどうなったのでしょうか。味方も敵も大勢の人が死んでしまうのが戦争です。
 平和学習の教材にしようと、地元の人たちが錆止め処理を施し、吉川村天然色市場で保存しています。
 現在は海水浴でよく知られる夜須町の住吉海岸。「震洋隊殉国慰霊塔」があります。
 ここは小型船を使った特攻隊ともいえる「震洋艇」の基地でした。終戦の8月15日の明くる日、突然須崎司令部から出撃準備の命令があり、その準備中に一隻のバッテリーの火花が漏れていたガソリンに引火し爆発しました。それが並んでいた別の艇へ次々と引火爆発、22隻の震洋艇と111人の隊員が犠牲となりました。
 土佐山田町佐岡小学校前にある平和の碑。山間部に近いこんな場所でもB29による空襲があり、地元民4名と軍人7名が亡くなっています。




 土佐山田町近くの南国市陣山です。


 戦時中にはこの山の地中に、無線通信を行う基地があったということです。夏には風もなく蒸し風呂のような中での作業だったでしょう。

 今でもその地下壕が残されていて、機器を据え付けてあったコンクリートの台座や爆風除けなどが、なごりを感じさせます。


 高知では沖縄のような敵が上陸しての戦闘こそなかったのですが、高知市などを爆撃機で襲った空襲による被害は大変大きいものでした。


 現在、戦争を知らない政治指導者たちが、この戦争での反省を顧みず、文民統制を外し、報道に圧力をかけ、国民を煽動して再び同じ道をたどろうとしているように感じる。危ない。