前田秀徳氏(歴史写真家)から丹中山歴史公園についてのメッセージ  2014年11月


 丹中山の開発等々の事や歴史公園の製作に至った経緯の事などは、著書「龍馬原点消ゆ」や「ああっ龍馬よ」に書いてきてもいるが、今年の龍馬誕生祭の日に某県外の某会社?の代表者という方と、坂本家の某縁者という方が(東京)丹中山の坂本家墓所に大人数で集まり、社会貢献のプロジェクトの第一弾として、桜の苗木三本を持って来て、植樹祭を執り行った。そして植樹祭が終わった後に、確か三者に感謝状が市から授与されていた。
 それを私は前には出ずに、遠くからその一部始終を黙して眺めていた(その場を濁すまいと黙して)。各報道関係者や某記念館たちも来ていた。その時の疑問点や不可解な事だった点は、植えた箇所を、後々の事を考えて場所を決めたのかという点。

 桜は数年で大きく育ち根をはるし、墓所の列石や敷石までも盛り上げ壊す。しかも虫が葉に沢山春にはつく。それらの世話を誰がするのか、後々のケアーは誰がするのか。
 私は開発当時から歴史公園完成に至るまでの約16年間はこうした世話や様々な管理を色々としてきた。
去年、平成20年に歴史公園に植えた桜は大きくなってはいたが、その二本の大桜も台風により倒れてもいる。風も強い場所でもある。
今回、植えられた桜が成長すればどうなるのだろうか、後々に墓や列石、歩道にも被害をもたらす事は目に見えている。
今更ながら、このような植樹祭が必要であったのか、桜三本の寄贈に感謝状も必要であったのだろうか。
まだ他にも私の友人知人らに聞いても欲しい事もあるが、このくらいで止めておく。
 尚、歴史公園内の他の数十本の桜や芝桜、ハイビスカス等々は私の友人や知人らが長年に渡り寄贈して植えてきたもので、後々、被害をもたらすような場所には植えてきてはいない。
 兎に角、植えるなら、植える場所などを今回は考えて欲しかったと思うのである。植樹祭が終わった後に墓前を見たら線香一本も供えられてはいなく、皆はまた何処かに呼ばれていたのか、すぐに下山して行った。
私と植木屋だけが残り灰皿他、色々と片付けをしたのであった。
開発中から歴史公園製作、現在に至るまで必死で携わってきたゆえに、思う事である。尚、その桜には御丁寧にも、「龍馬桜」と名付けて、また何にやら商標?登録なるまですると聞いてもいるので、その勢いに疑問を感じている所でもある。
歴史公園は14年間の歳月を掛けて平成20年3月23日に苦労し完成させている。この桜の寄贈などに付いては、今更ながらと言う感もあるのである。(2014年11月)