よいよい写真館江戸の祭り>佃祭り


佃祭り

 八月八日の日曜日は佃祭りの最終日であった。佃祭りは佃島の住吉明神のお祭りである。今年は陰祭りの年だが宮神輿(みやみこし)は出るというので、早起きして見に行った。本祭りは三年に一度で、あとの年は陰祭りとして小規模におこなわれ、陰祭りでは佃祭り名物の獅子頭などは出ない。

 宮神輿の発簾(はつれん)が午前七時なので国分寺で五時三十分の電車に乗った。新宿で、その名も「大江戸線」に乗り換えて、月島で降りて、今時珍しく仕舞屋(しもたや)の並んだ佃島の家並みを見ながら歩いて、(その家並みのすぐ向う側の石川島には、リバーシティ21の超高層マンション群が立ち並んでいる)七時少し過ぎて住吉神社に着いた。

 八角形の住吉神社の宮神輿は既に発簾しており、多くの若者に担がれて、セイッセイッというような掛け声とともに、神社の鳥居を出て、いかにも下町らしい家並みの続く佃島の路地を練って来た。

 神輿は、鳶頭衆の木遣り唄に先導されてやってくる。今年五月に見に行った神田祭でもそうであったが、こなれた江戸木遣りの合唱を聞いていると、その粋な唄い口に思わず知らず引き入れられて、深く江戸情緒に浸ってしまい、感動する。まことに木遣りは江戸芸のもっとも冴えたるものだ。

 江戸っ子は木遣りを唄うことを「木遣りを呼ぶ」という。「我々の手合いでは木遣をやらなければ、一人前になれねエンで、その木遣がなかなかよべねエんだ。」という明治初期の火事師(火消し鳶)の親方の言葉がある書物に採録されている。

 住吉神社の八角神輿は天保期に造られたもので既に百七十年経っており、傷みが激しく、今年が最後の巡行渡御だそうだ。今、新しい八角神輿が制作されており、来年の佃祭りからはこの新八角神輿が渡御し、元の八角神輿は修理の上、住吉神社の神輿庫に保存されることになるらしい。

 八角神輿が傷むのは当たり前で、この神輿は住吉神社の祭礼のたびに若衆に担がれて海に入るのだ。「海中渡御」という。海に入る神輿はこれだけだ。終戦後まで百年以上海に担ぎ込まれていたので、潮水を浴びる神輿は傷みが早い。もっとも大川(隅田川)の水が汚れてからは海中渡御は無くなり、現在は行われていない。

 慶長年間(1596〜1615)に徳川家康が、摂津国佃村の漁夫三十四人を江戸に移住させ、江戸湾で漁をさせて江戸の魚の需要をまかなわせた。その後寛永年間(1624〜1644)に隅田川河口の干潟百間四方の土地を賜って、正保元年(1644)家を建て並べて、本国佃村の名を取って佃島と名づけた。これは、どの書物でも大体同じ記述であり、間違いない事実である。

 少し長いが<江戸名所図会(天保期)>の文章を引用しよう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
佃島
 (前略) 天正年間、東照大神君遠州浜松の御城にましまし、皇都へ上り給ふ頃、摂津国多田の御廟および住吉大神にまうで給ふとき、神崎川御船なかりしに、佃村の漁夫猟船をこぎ出して渡し奉りしかば、伏見御城にまします時も、御膳の魚を奉るべき旨、台命あり。
 また西国へ御使などの折からは、かならず漁船を以て仕え奉るべき旨命ありしかば、大阪両度の御陣にも、軍事の密使或は御膳の魚猟等の事、日々怠りなく仕え奉りしかば、其後漁人三十四人江戸へめされ、慶長年間浅草川御遊猟の時、網を引かせ給ひ、同十八年八月十日海川漁猟すべき旨免許なし給へり。 (中略)
 然るに寛永年間、鉄砲洲の東の干潟、百間四方の地を賜り、正保元年二月漁家を立て並べて、本国佃村の名を採りて、即ち佃島と名付く。又白魚を取りて奉るべき旨、台命によりて、毎年十一月より三月迄怠らず奉る。 (後略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<江戸名所図会>の佃島の図には榎本其角の句が刷り込まれている。
       名月やこゝ住吉のつくだじま
 佃島の白魚漁は江戸期を通じて名物であったが、明治も末になると白魚は取れなくなってしまった。
 また佃島移住と同時期に摂津の住吉神社を分社して祀ったのが佃島の住吉明神である。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
住吉明神社
 佃島にあり。祭る神攝州の住吉の御神に同じ。神主は平岡氏奉祀す。正保年間攝州佃の漁民に、初て此地を賜はりしよりこゝに移り住む。本国の産土神(うぶすながみ)なる故に、分社してこゝにも住吉の宮居を建立せしとなり。(中略)
 例祭は毎歳六月二十八日・二十九日両日なり。人々群集す。(後略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 佃島の漁民も江戸っ子であるが、明治初期まで佃の言葉は関西訛りを含んでいた。啖呵を切っても、純粋の江戸っ子とはいかなかった。「何でイ、コノ菰被り(こもかぶり)めッ」とか「頓馬なこというねエ、コノおたんこ茄子めッ」。江戸っ子は菰被りやおたんこ茄子なんかとは言わない。

 朝早くから、木遣りを聞いたり、若衆に担がれた八角神輿の渡御を楽しんだりして、いっぱい写真を撮って、十分に佃祭りを堪能した後、本場の佃煮をお土産に買って、国分寺に帰ってきた。

 本場の佃煮を売る老舗が、同じ通りに三軒ある。住吉神社に近いほうから、「丸久」「天安」「佃源」とあるが、天安であさりと昆布を100gづつ買った。一番古い天安は天保八年(1837)創業で、他の二店も幕末期に創業したものだという。

<参考文献>
・「江戸名所図会」   −復刻版(筆者蔵書)−斉藤月岑・他
・「江戸から東京へ」  −第一、九分冊    −矢田挿雲
・「東都名所」「名所江戸百景」−復刻版    −安藤広重
・文および写真は全て野閑人による 。

よいよい写真館江戸の祭り>佃祭り