江戸の祭りメニュー

【2013版】

野閑人です@少々画害御免

 家事多端の折、余り家を離れられないが、この時だけは出かけないわけにはゆかない。
 神田明神の2年に一度の本祭りの各町神輿の渡御が5月12日に行われた。
2年前の本祭りは東日本大震災のため中止となり、実に4年ぶりの本祭りとなった。
 この日は、神田各町の神輿が百基以上、朝から順番に宮入りを行う。
全部終わるのは夕方になってしまう。宮入りの前と後に、それぞれの神輿は
神田の町を一日中練り歩くことになる。


5月12日は朝から初夏のように暑い晴れた日になった。


10時頃御茶ノ水駅で電車を降りて、聖橋を渡りかけると
湯島聖堂の方角から神田囃子が聞こえてきた。


湯島聖堂の北側の道を挟んだ向かいが神田明神社だ。


既に神輿の宮入は行われており、その時は4基の神輿が
宮入の待機中であった。


日本の祭り囃子の定番「神田囃子」は江戸時代にはなかった。比較的新しい、と言えば、言えるもの。


明治に入ってから、たぶん葛西囃子などをもとに考案(作曲)され、
その後、土地柄から、もっとも洗練された祭り囃子となった。



吾輩はこの神田囃子の生演奏を聴くために神田明神社に来るようなものである。


そのついでに神輿の写真を撮ってくる。









元禄期(1690頃)から江戸の三大祭り(天下祭)の一つに数えられる神田祭は
江戸期を通して、祭り山車(だし)の行列巡行であり、神輿は少なかった。


明治以後は電柱と張り巡らされた電線のせいで山車の巡行ができなくなり、神輿ばかりの渡御になってしまった。
逆に、現代では都心は電線地中化で電柱が無くなったので、山車巡行を復活させたら良いと思うのだが。



町中を渡御する神輿は時々休憩する。


そして再出立の時は、兄貴(あにぃ)の拍子木に合わせて三々七拍子の手打ち一本締めのあと、
担ぎ手全員で江戸木遣をひとしきり唸ってから、よいしょと出立する。


この江戸木遣というのがまた洗練されたもので、その歌い口は
江戸の粋というものを集約していて、 しばし深い江戸情緒に浸れる。












数時間、明神様の境内で祭りを堪能した後、神保町の方向に歩いて行くと、
ちょうど駿河台下の交差点を通行止めにして、交差点内を4基の神輿が
練り回っていた。


周囲は見物の群衆が取り囲み、歩くのもままならぬ。


4基の神輿は、神田小川町、神保町、猿楽町、錦町の神輿であった。


30分以上交差点内を練り回っていた。



娯楽の少なかった江戸時代は、江戸っ子の祭への入れ込みようは並大抵じゃなかった。


江戸っ子の中には祭に参加するため一年中仕事しているような連中もいた。


三田村鳶魚翁の祖父(八王子千人同心)の知り合いに神田須田町の
大工の棟梁がいて、 天保の頃(1840頃)の話だが、・・・


・・・娘を神田祭の踊屋台に出させるため借金して祭礼用の豪華な衣服を 拵えて、
祭り当日に娘に着せ、踊屋台に乗せて一日中練り回らせて大得意であった。


さて、祭りも終り、借金返済のため、祭りの翌日に当の娘を吉原に売り飛ばし、
それでも足りずに女房も宿場女郎に売り、なお不足で、九月末には夜逃げしてしまった、 という話がある。
何でも三百両(現在の貨幣価値で約三千万円)も掛かったであろうという。


現代の倫理観で見ると全くひどい話であるが、当時の倫理観からも
余り感心される話ではなかったようだ。江戸っ子の嫌な面が典型的に出ている話だ。


平戸の殿様、松浦静山候の随筆「甲子夜話」にもこうある。
「尤も歎ずべきは軽賤の者、祭礼用意の衣服等の料に支ゆるとて、
妻娘を妓に売こと、頗る有と聞く、かゝる風俗を見捨置くは、町役人の罪といふべし」

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